【父97歳のこと 11】

父 富男、4月27日午後3時12分に旅立ちました。

人として穏やかな最期の日を、日暈の光と温かな人の心に包まれて過ごすことができました。

生前は皆さまにお世話になり、ありがとうございました。

しかし、本当に母の七回忌に逝くとは..

合理主義の父が、一番私たちが負担の少ない日を選んだのではないかと(笑)

おじいちゃん、本当にお疲れ様でした😌

咲夜はおじいちゃんとお疲れの乾杯をして、久しぶりにハラハラなしに横で寝られました💦

4月23日(金)の夜、意識が混濁するなかに意思疎通がとれた最期の夜

水を要求し、

「おさめ」

「おごっそうさんでした」と言い

力が出ない手を伸ばし、ベッド脇で父を見ている私のほっぺたを両手で優しくはさみ、私を見つめにっこり笑って

「ありがとう」

「立派になって下さい」

と、それが最期の言葉となりました。

死戦期呼吸の期間が長く、見てるのは辛かった..

昼から血圧が下がっていき、見た目でも力強い脈が小刻みになっていき、そして孫が部屋に戻ってすぐ、吐き出すような息と声を一息つき、息が完全に止まりました。

でも母や兄と違い、その後3分以上首の脈は打ってて、やっぱり心臓強い💦

魂が旅立った父を囲み、孫たちと泣きながら「あっぱれ、おじいちゃん」と拍手をしました。

小濱家の長男として、家長として、立派に務め上げた人生でした。

孫が揃ってから、先生は死亡診断をしてくださいました。

最期エンゼルケアで顔を拭き、看護師さんがあとの処理をしてる間に帰る支度を進めました。

そして、看護師さんが終わりましたと言われ中に入り、最期に紅を入れ.. ん?「口が開いてますね」と、恵美最期まで容赦ありません.. 固まる前に口を閉じなければと

看護師さんにバンドをもらい顎を上げ、父らしい口元になるよう、指で形を整えました。ごちゃごちゃ触られてももう文句は言わない(笑)

それでも少し口が開いてたのですが、家に帰り孫たちとこれからの段取りを横で話してる間に固く閉じられていました.. 不思議😳

看護師さんが、「あの笑顔が周りを明るくされました」と、本当にどこに行っても愛されキャラで..

父のようにはできないけど、父からもらった遺伝子を最大限生かして、少しでも人に役立つ人間になるよう頑張ります。

おじいちゃん、もう何の心残りもなくなるまで、最期まで大事にしてくれて、ありがとう。

母のときはテッセンが満開でしたが、父の時は小さなパンジーが満開

帰ったらご近所さんと、自治会長さんが飛んで来られ目を赤くされてました。「小濱さんにはお世話になった」と..

今日はご近所さんや親しかった人に自由にお別れをしてもらいます😌


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